【適応障害体験記①】〜症状前〜

私は2021年2月5日に心療内科にて「適応障害」と診断され、5月20日現在療養中の会社員です。

自身の経験したこと、その時の考えや感情を、記憶が曖昧になる前に書き記すことを目的に、「体験記」としてブログに書くことにしました。

 転機は突然訪れました。

 2020年春の定期人事異動で、「新規事業開発部 兼務」という発令が出て、主務である北海道事業の企画管理部との「社内ダブルワーク」がスタートしたのです。

 「新規事業開発部」は、頭打ちになりつつある既存事業に変わる“新たな収益の柱となる事業を作る”という社長の勅命の元、社長自らが担当役員となり創設した部署でした。グループ内他企業で実績を残した社員が主務メンバーとして引き抜かれてきたこともあって社内の注目度も高く、北海道事業本部内では私だけに白羽の矢が向けられたことを、内心誇らしく思っていました。

「新しい事業を作ってあやよくば社内起業してやろう!」くらいの意気込みでした。

が、主務である事業本部の企画管理部の業務は、その時すでに多忙を極めており、とても新規事業に取り組む余裕はありません。

主務側の上司やその上の担当役員にしても、北海道事業のことを考えることが彼らのミッションなので、部下である私が新規事業側の仕事(別のセクションの仕事)に時間を取られることなど、全く歓迎すべきことではないのです。

また、兼務側の上司や社長は東京の本社にいるため、私がいる北海道側のことは普段気にも止めません。私以外の新規事業部メンバーは全員本社内に在籍していたので、物理的な距離感もありました。

野心を抱きつつ「こんな状況で上手くいのかな」という不安と「この状況で本当に成し遂げたら、自分めっちゃ凄くない?」という期待が入り混じりながらも、「その他大勢から抜きん出るチャンスだ!絶対に自分の力で成果を出さなければ!」という自分へのプレッシャーを強く感じていた時期でした。

こうして、私の孤独な戦いが始まりました。

第2章 2020年夏 〜気がつけばワーカホリック〜

社内ダブルワークも3ヶ月を過ぎた頃から、手の抜きどころがわかるようになったのか、少しペースを掴んでいたような気がします。

主務では、事業部内の複数プロジェクトを担当し同時進行させながら、新規事業の方は代理店への外注を上手く使い、ある新規事業の実証実験をする所まで進めていました。

手前味噌ですが、期待通りの活躍ができており、自分でも会社員としての“リア充“感を感じていました。

但し、今振り返ると、‘一人の人間として‘はあまり充実はしてなかったように思います。

平日は朝目覚めるとパソコンを開き自宅テレワークを開始し、日中は出社しても自宅でもほぼ休み無しで会議や打ち合わせの予定に追われ、夜は晩御飯とお風呂以外の時間は資料作成や翌日の会議準備に追われる毎日でした。

平日だけでは処理しきれない分は週末に仕事時間を作り、どうにか仕事を回しているような状況。家族で出かけたりしても常にやらなければいけない仕事が頭から離れず、楽しく会話した記憶はほとんどなく、仕事をしていた記憶しかありません。

元々は「仕事は二の次、家族が一番」的な価値観を持っていた家族大好き人間だったのですが、気づいたら、ワーカホリックになっていたのです。

今冷静に「なぜこうなってしまったのか」を振り返ると、‘自分への過度な期待’と、‘周囲からの信頼を失う事への恐れ’があったと思います。

「自分が一生懸命やれば上司の期待に応えられる」「この状況でも自分の力で乗り越えられる」「期日通りにやり切らないと、上司の期待に応えられない」「上手くやれない、予定を変更する、等は敗北宣言と同じで、許されない」

そんな思い込みが強くあったように思います。

この時はその渦中におり、「余人をもって変え難い仕事をし、充実しているからこそのプレッシャーだ」と自分を納得させていたので、この状況を自ら変えよう等とは全く思わず日々を過ごしていました。

自力ではどうすることもできない事態を、自らが招いているとも知らず・・・

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